カーニバルは数日にわたって繰り広げられる、美の祭り。
古くは宗教的な断食期間を前に肉を食らい、期間に備える祭りだったが、断食や節制の習慣が形骸化した後でも残った享楽的な祭り。
しかし……飲んで歌って恋をして……それのどこが悪い?
オリヴィエは人々の贅を尽くし、工夫を凝らしたドレスやマスカレードの波に目をやり、微笑みながらグラスを傾ける。
今日は飲む日と定めてこの舞踏会に参加していた。歌ってもいいが、オリヴィエが歌うと、そのあと群がってくるご令嬢やご令息をさばくのが大変だからだ。
このパーティはあまり格が高くない貴族の催し……歌うなら、更に下……金持ちの商人あたりが開くものがいい。そちらの参加者は、フラれ慣れている。断ればさっさとハケてくれるのもありがたいし、たまに一夜の戯れ相手を選ぶにしても、あとくされが無くて楽だ。
オリヴィエは庶民の乱痴気騒ぎに紛れ込むのも、最上級貴族のパーティに参列するのも自由自在。その日の気分で出かけて行く先を決めている。
それができるのは、オリヴィエがいくつもの顔を持っているからだ。
元々彼は北方の国からの留学生だった。そしてこの地で頭角を現し、今や共に学んだ元首の息子の相談役まで務めるようになっている。元首自身の覚えもめでたい。他にも、デザイナーとしてドレスやアクセサリーの原案を手掛け、今は貴族にも人気の店のオーナーでもある。
貴族と親交の深い隠れた豪商……とでもいったところか。しかしオリヴィエは普段は、他国から来た留学生という肩書で通している。その方が何かと気楽だからだ。
才知あるものが、それを存分に伸ばせる水の都。
オリヴィエはこの地を愛している。
グラスを干して、代わりの一杯を家来たちがささげている盆から取り上げたオリヴィエは、ふと視界の隅に無粋なものを見つけて眉をひそめた。
若い令嬢が、男に壁際に追い詰められている。
口元には微笑みが浮かび、目元は白い仮面で隠されているが、男から身を離そうとする姿勢から、彼女がその誘いを快く思っていないのは明白だ。
断られたら、さっさと引くのも駆け引きの内。オリヴィエは人波の間をすり抜け始めた。
時折誘って伸びてくる細い指先や流し目には適当に笑みを返し、オリヴィエは優雅に二人の元にたどりつく。
そしてやや大げさに両手を広げて見せた。
「やぁ! 久しぶりじゃないか! その麗しいバラ色の髪、仮面で隠していてもすぐわかったよ」
女性に向かって深々と礼をしてみせる。そして素早く男と令嬢の間に身を滑り込めせ、耳の近くで「話を合わせて」とささやいた。令嬢が小さくうなずくのに微笑むと、オリヴィエは「今気付いた」と<言わんばかりに男の方を向く。
「おや、失礼。こちらはお友達かな? 是非紹介して欲しいなぁ。人付き合いの苦手な君がパートナーを連れているとは本当に珍しい。……私はオリヴィエ・ポロティッツィオーネ。貴公、名は」
オリヴィエはいくつか使っている名前の中で、この場で最も威力を発揮しそうなものを選んで男にささやいた。
「……っ! ポロティッツィオーネっ?」
「おや、ご存じか」
「ど、ど、ドージェの相談役……っ!」
「はは……それは買いかぶりすぎです。私はドージェのご子息の学友にすぎません」
こそこそと話すうちに男は後ずさっていく。
「こちらの方は本当に君のパートナー? なんだか顔色が優れないようだけど?」
「いいえ……あの……」
男は慌てたように左右を見回し、
「あ、そ、そうです。所用を思い出しました。御前失礼!」
と言って、人混みの中に逃げ込んでいった。
「クハ! やれやれ、所用ねぇ……」
オリヴィエは肩をすくめ、令嬢の方を振り返る。
「失礼。差し出がましいかとは思ったんだけど、お困りの様だったから」
「いいえ、助かりました。ありがとうぞんじます」
仮面の奥から聞こえた声音に、オリヴィエはハッと目を見開く。それは、穏やかで、それでいて華やぎを持つ美しい声。
美を愛するオリヴィエの耳に、それは託宣のように響いた。
「申し遅れました。私はオリヴィエ・ベイソーニ」
今度はもう一つの名を告げる。こちらは女性にはよく効く名前だ。
「まぁ……あなたが……」
ふふ……とオリヴィエは笑い、もう一度丁寧に礼をした。
「私のドレスを美しく着こなしてくださってありがとうございます、ご令嬢」
「お上手ですこと」
ベイソーニは、オリヴィエのデザイナーとしての名だ。ポロティッツィオーネの方は、少々有名になりすぎた。
「あなたのようなご令嬢がパートナーもなしでいるとは、少々不用心と言わざるをえません。どなたといらっしゃったんです?」
「お友達と来たんですが……彼女はちゃんとパートナーがいらっしゃるので、かまわずに踊りに行ってらっしゃいと申し上げたんです」
「おやおや……その方々は今?」
「あちらですわ」
令嬢が指示した方を見ると、目立つ長身、黒髪の男性と、美しい金髪の女性が踊っている。
「お似合いでしょう?」
「確かに」
これはあちらを邪魔するのも気の毒だ。
「では、ご令嬢、あちらのお二人には伝言を残して、宿までお送りしましょう」
「……! わたくし、こちらの者ではないと申し上げましたかしら?」
「いいえ。けれど言葉のところどころにかすかにクセがあります。……ご旅行ですか?」
「そのようなものですわ」
「どこまでお送りすれば?」
彼女の口から告げられたのは、ほど遠くない場所だ。
「君」
家来の一人に声をかけ、オリヴィエは素早くメモを書いて、チップとともにその男に渡す。
「これをあちらの紳士とご令嬢に渡してくれ」
「かしこまりました」
「では、参りましょう」
オリヴィエは令嬢に右腕を出し、彼女の方もつつましくその腕に左手をそえた。
告げられたのは歩いてでも行ける場所であったが、オリヴィエは令嬢をゴンドラの乗り場に誘う。
「今夜の思い出があんな男に言い寄られた物だけではつまらないでしょう。せめて美しい街灯りを見て帰りましょう」
「……一応申し上げておきますけれど、わたくし、あれくらいの殿方一人、投げられるくらいの護身術の心得はございますのよ」
「それはすごい」
「あそこでは大騒ぎになりそうだったので、披露しませんでしたけれど」
「運河に投げ入れられなければならないようなことはしないと誓いますよ」
「……ディア・アイユートですわ」
令嬢は初めて名乗り、美しいカテーシーを見せてくれた。
「ディアとお呼びくださいませ」
「では、ディア」
オリヴィエは身軽にゴンドラに乗り込み、ディアに手を差し出す。
「参りましょうか」
ディアは微笑んでその手を取った。
二人で並んでゴンドラに座り、お互い仮面をはずす。ディアの目は金を混ぜたグラスのように美しい赤。整った顔立ちは、想像より少し幼い。
「まぁ、オリヴィエ様はとても美しくていらっしゃるのね」
ディアは驚いたようにまじまじとこちらを見て言った。
「ハハ……ありがとう。そういうまっすぐな賞賛は好きだよ」
オリヴィエは笑う。自分の容姿の良さは知っている。下手に謙遜して見せなくてもいいということも。
「ところで、ディア」
「なんでしょう?」
「まっすぐ帰るのもつまらなくないですか? この先の広場の飾りつけはそれは美しい。そちらを回ってお送りすることをお許し願いたい」
ディアはクス、と笑って、共犯者のような目をした。
その表情は、とても魅力的だ。
「いいですわね」
「決まりだ」
オリヴィエは船頭に、少しばかりの遠回りを指示した。
飲んで歌って……恋をするのも、悪くない。そう思いながら。